(メモ)「生きた隠喩」

数は少ないながらも論文を書くときに、“比喩、隠喩、メタファー”という言葉を使わなかったことはない、というくらいにお世話になりながら、その働きについて、ちゃんと考えたこともなかったな、と思いいたり生きた隠喩 (岩波モダンクラシックス)を読み始める。

あまり顧みられることもないのかもしれないけれど、今の自分にとっては学ぶところが多かった。

あえて断定的なもの言いから始めて、そこから押し出されてしまうものをすくい取るために、言葉づかいのフレームを粘り強く修正してゆくスタイルに、研究者としてあるべき姿を教わった気がする。

隠喩といえば、隠喩的な言語があるというよりも「言語が本質的に隠喩なのだ」とはよく聞くフレーズではあるけれど、それで流さずに、ではその隠喩の「隠喩性」をなすものとは何かと問い直す。

はじめに明快な定義が出される。


隠喩の構造はただ一つ、ある事がらに対し、別のものを指す名を用いる「語義の転用」であるが、機能は二つあることになる。説得や論理性を目的とした「弁論術的機能」と、イメージを伝える「詩的機能」


これだけでも論点によっては充分使えるものだとは思うけれど、本書はその定義が生み出す機能(意味)の「二重性の謎」に踏みとどまる。

煎じ詰めると、隠喩はAをBのあいだに類似性を認めて、AをB<と見る>ことなのだけれど、肝心なことは、Aは完全にBではない、ことも忘れないことなのではないだろうか。

「つまり、隠喩は両者の差異を超えて、「これはあれである」と言い切ること。前の境界の廃墟の上に、新しい境界を敷設すること。(差異の中に類を生み出すこと)

自分など、論文を書いていて感じるのは、AをBと見たときに、AをBと同一視してしまう辛抱のなさなので、両者の隔たりを視野に入れつつ、AをBと見ることの意義を探る本書の議論の姿勢や言葉づかいはとても興味深く読んだ。

「字義通りの<でない>は隠喩的な<である>を伴う」
「XをY<と見る>ことは、XはY<でない>ことを包含する」
「時間を乞食と見ることは、まさしく時間は乞食でないことを知ること」

時には明快に語ることも必要だろうけれど、こうした葛藤を安易に切り捨てないことは、論文書くときなどは頭の片隅に入れておきたいな、と思った。